よさこいの町

 

  土佐を知る

 

土佐の最古から現代へ  (要約編)

 

 一万年前(先土器)四万十川最上流の支流北川川の河岸段丘影野地遺跡(梼原町初瀬)でチャ-ト製ナイフ形石器を検出とある。

その石器が果たして人が作り使ったものか?それとも動物によって作られたものか?その真相は明らかではない。

 

高知では縄文時代から弥生時代・古墳時代へと多くの遺跡が発見されている。         

 

流人の歴史 

 

高知県の年表によれば672年飛鳥時代の「壬申の乱」皇位をめぐる争いで天武天皇が即位の後、蘇我赤兄(大化の改新当時の勢力者)が土佐に配流されると伝え

られる。(配流の記録はこの時代から)

 

724年 配流(罪人を遠地へ追放すること。)の制が定められ、土佐は伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐と共に遠流の(遠くへ追放)地となる。

 その後、739年には(天平11)石上乙麻呂が土佐に配流。

 

◆930年(延長8)に紀貫之「古今和歌集編集の中心人物」が土佐守となる。

 

934年、紀貫之の任期が終わり帰京、翌5年頃[土佐日記]が成立。

       (882-946)

 

◆1060年には伊勢守、藤原義考が土佐に配流。

 

◆1142年には源盛行、妻津守島等が土佐に配流。

 

672年頃からこの年代までに都から土佐に配流、遠流(島流し)された歴史上に名を残した人物は多い。

 

歴史上偉大な人物たち

 

◆1560年、長宗我部國親(長浜)浦戸城を陥す。その時が元親の初陣。

 

◆1575年元親は甲浦城を攻略し土佐を統一する。

 

◆1585年元親四国統一成る。

 

◆1600年 関ヶ原の敗戦で長宗我部 盛親除封され、山内一豊が土佐国主と成る。

(土佐の近世は一豊の入国と河中{こうちと読む}のちの高知の名のおこる地への築城となる)

 

1605年 一豊 死去 (61歳)1617年 一豊の妻[見性院]が 死去する。

 

◆1631年 野中兼山が執政となる。( 野中兼山は(1663年)に死亡)

 

世界的な企業の創設者も土佐藩士

板垣退助らとともに明治維新の志士

 

特筆 ・1839年 竹内 綱 宿毛に生まれ、のち土佐藩士となり、板垣退助らとともに明治維新の志士として活躍、その後1921年 世界的な企業の小松製作所の創設者(戦後の総理吉田茂は綱の五男)(著、工業ハ富国ノ基、より)

 

1852年 漂流民中浜万次郎がアメリカから帰国。

 

◆1853年土佐藩士、吉田元吉(東洋)が参政に(政治に参加)登用される。

 (高知市帯屋町生まれ)

 

◆1856年 武市半平太が 江戸臨時御用を命ぜられる。

特筆1860年土佐藩士竹内綱の長男 竹内明太郎生まれる。のちの小松製作所の創業者(北陸新聞社出版局、沈黙の巨星より)

 

◆1861年 (文久1)武市半平太が土佐勤王党を結成。 

 

◆1862年 吉村虎太郎、坂本龍馬らが脱藩する。この年吉田元吉(東洋)暗殺される。

 

◆1863年 武市半平太ら投獄され土佐勤王党への弾圧が始まる。

◆1865年 武市半平太が獄中で切腹を命ぜられる。

 

◆1866年 坂本龍馬の仲介で薩長同盟が成立する。

 

◆ 1867年(慶応三年)山内豊信が15代将軍徳川慶喜に政権を天皇に返還を進言。

 鎌倉幕府以来徳川まで約700年余り続いた武士による幕府政治は終わる。

 

1867年 西郷隆盛が来国、山内容堂と会談。この年海援隊が組織される。

 その後、 坂本龍馬、中岡慎太郎が京都で暗殺される。

※ 1868年=明治元年

 

◆1869年 (明治2年)山内豊範(16代藩主)が薩長肥藩主とともに版籍奉還を建白する。

 

■ 山内豊範が高知藩知事となる。

 

◆1871年 西郷隆盛、木戸孝充、大久保利通が来国。この年廃藩置県が発せ

  られ高知県となる。

 

幕末は龍馬・明治は退助・昭和は茂

 

1874年自由民権運動の板垣退助ら民撰議院設立建白書を提出する。

 

◆1875年 板垣退助ら大坂で愛国社を結成その後、参議に復職する。

 

◆1881年(明治14年)板垣退助が東京で自由党を結成初代総理となる。

 

◆1882年 板垣退助岐阜で遭難する。

 

1885年 西南戦争(1877年の)で大儲けをした岩崎弥太郎死去。

 

◆ 1892年 植木枝盛(1857年土佐の国、井口村生まれ)が死去する。

 ◎ 自由党員で憲法草案者「日本人民は自由に集会する権利を有す」など政府が憲法に従わないときは、人民は政府に従わなくてもよいとし「日本国民はこれを覆滅して新政府を建てうる」と規定したことで有名。 

 

◆1896年 板垣退助は伊藤内閣の内務大臣となり、自由党総理を辞する。

  (1837-1919年83歳で没)

 

◆ 1900年 幸徳秋水が非戦論を発表する。

 

◆ 1901年 中江兆民が死去する。民主主議思想を国民の間にひろげ自由民権運動の中心者。

 

◆ 1929年 浜口雄幸 民政党内閣が誕生する。

◆ 1931年 浜口雄幸が死去。

 

◆ 1945年 自由党高知支部が結成される。

 

 1946年 吉田茂が内閣を組織する。

 

◆ 1947年 初代の民選知事に川村和嘉治が当選。

 

◆1955年 吉田茂内閣が総辞職する。 この年自由党県支部が発足する。

       当時の知事に溝淵増巳が当選。

◆ 1967年 吉田茂が死去し、県葬が行われる。

 

◎終戦後(昭和21年)戦後最初の政党内閣をつくったのち自由党総裁となり

 1947年一時、社会党に政権をゆずったが1948年から1954年まで政権を

 担当(1878-1967竹内綱の五男)

 

       流人文化の土佐

 

 高知は大化前代には都佐[土佐]波多[幡多]の二国にわかれていた。

 

 崇神天皇の時(315-332貝田禎造の説)天韓襲命(あめのからそのみこと)が[波多]の国造に任命され、その後、成務天皇の時(335-347)小立足尼に(おだちのすくね)が[都佐]の国造に任命されたと記されている。

 

(注)土佐が大和朝廷の支配下に入った経緯を示していると思われる。[ 国造本紀 ]

 

◇ 土佐の文化を流人文化◇ 明和9年 安永と改元(1772)から安永4年にかけて土佐の国は7郡にて東西洋路九九里◇浦の数九九浦◇東西数十里南へさし出

◇三つの輪組で、みかづきのごとし(土佐一覧記)

 

明治14年(1881)国会開設の詔勅が発布に対して同年10月総理、板垣 退助 ・ 副総理 、 中島 信行◎後藤 象二郎・馬場 辰猪・竹内

(吉田茂の父)林 包 明 ・大石 正巳・ 等 総理以下 役員11名の内7名までが高知県人であった。(高知県歴史書)

 

旧制高知高等学校の[豪気節]に[ 南のお國は土佐の国、革命と自由の生まれた地]

[自由は土佐の山間より出ず]◆ 「 板垣死すとも自由は死せず」の名言が残る。

 

土佐の交通歴

 

海上 1890年、高知汽船会社設立(高知-阪神間)

 

 

陸上 1893年、土佐鉄道協会が発足

 

 

    1898年、土佐電気株式会社を創設

 

 

    1927年、四国モ-タ-ス(株)創設。(外車のシボレ- )

   西山合名会社が◇野村茂久馬氏の紹介助言で販売(以降1931年高知トヨタ自動車、等)

 

1939年、野村産業株式会社が発足野村茂久馬は土佐の交通に大きな功績を残さ物。(車種フォ-ドなど) 

 

  2006年7月25日

            編集者 杉本 武繁

           高知市土佐山東川537