土佐の偉人  土佐の模範

           (昭和の戦後から平成)

 

昭和の戦後から平成にかけて語りつがれる土佐の人

 

自費を投じて民間活動に貢献した土佐の5人。

共通は明治の終わりから大正生まれの事業家、どん底からの成功、ゆとりは社会貢献へ。

 

自然こそ最高の文化

日本みどりの党 「星よりのことづて」出版:「奪う文明から与える文明へ」を訴える。

 

山崎 圭次    明治45年、高知市生まれ(1912年) 

 

独自で技術開発、一代で会社を築き、会社の安定と同時に自費を投じて環境活動に余生をかける。

環境活動の先駆者

特記:

環境、公害対策に消極的な役人に対する批判論を展開。無能な役人に職権を与えることは、キチガイに刃物を与えると同じだ。

この論を展開、自ら提案する数多くの環境活動にはその経費は全額負担を続け高知の環境活動に貢献した。

 

山崎圭次氏は、たとえ目的が失敗に終わっても、その責任は全て僕が取るからやってください、こういう人。物事頼みには相手に対する気配りを感じ、カリスマを有する高知の大物。 

 

山崎 圭次

 

常に「公平虫」 得意先本意、人材養成にすべてがある。

「今日に生きる」出版

高知の経済界の雄 

  

西山 利平  明治44年、高知市生まれ。

高知県の観光発展に貢献:足摺岬=たつくし海中観光、 

☆須崎市浦ノ内=グリ-ンピア土佐横浪、その他。

特記:主な活動

西山利平氏は、紺綬褒章、大蔵大臣賞、他、4つの功績受賞がある。 

 

高知の巨大企業グループの会長、人には公平に接し、常に「公平虫」の精神。

 

1986年11月の取材では、ワシは、会社の定例の重役会議では、自分の意見主張は後にして、誰か困ってはいないのか、会議場内に目を配り役員の顔色をみては、元気のない顔色の役員のそばに行き、相談を受けては改善に協力することに徹していると語る。

 

長年、本県観光発展の自費活動続け、さらに四国の観光の発展のためにも世界長大吊橋のレポート1位ー20位までの独自の調査発表(1988年7月)がある。

 

※ 1986年11月の取材の時、君には話しておきたい聞いてくれ、と言った話は、、、、

 

実はワシは親父の会社へ入社するのがいやで大学を卒業と同時に親父から2万円もらって、それを元手に株屋をやって2年で、、なんにもなしとなった。

たちまち生活に困り行き場がなく、親父に怒られる覚悟で、しょぼしょぼと高知の親父の元へ、、、、お父さんすみません、、、

僕が甘かった、と詫びると、怒られるつもりが、親父は、ぞんがい長ごう持ったねや、、、と言い、ほんなら、そんなおまえを高知に置くわけにはいかんので、愛媛の子会社へ行け、そう言われて行った先の会社は今にも潰れるような貧乏会社だった、、、

 

そこで苦労働きをしたが運も良く会社を再建ができた。

やっと親父に認められて高知の本社へ帰らせてくれた。

 

大学卒業から愛媛の潰れるような貧乏会社を再建に勤めた時期がワシの人生のどん底、そのどん底人生の期間がワシの人間性が育った時期と思う。

人はどん底を味合わなければ成長はない、ワシは常に自分の周りに「公平虫の精神」 得意先本意、人材養成にすべてがある。その哲学にある。

 

凡人をいくら多く集めても、そこから出てくる答えは、やはり凡知恵となるので有能な人材に金をかけて人材養成の方が人材投資の効果が大きい、これからは技術系の経営者でなければ通用しない時代に向かう、とくり返した。

高知の経済界では模範になる人格者。

(1986年11月には月刊誌の創設を提案、創刊号の費用を全額支援、自らその紙面に再三登場して高知の観光発展の推進活動を呼びかけた)

 

西山 利平

土佐を代表される女性           

 

ホテル土佐御苑

社長 横山 玉恵   大正10年5月15日生まれ。

 

室戸岬の津呂港から大志を秘め単身娘が高知市内へ、美容師の修業から開業へ、それだけでは満足できずにホテル業界へ、昭和38年12月「株式会社土佐御苑」設立。

 

高知県の観光発展に貢献。

全国農協観光高知県高知支部長、他、5つの要職歴。

 

特記:(1987年3月の取材から)

「私もやるから、あなたもやりなさい」のタイプ。物事を起こすのには自費を投じて他人の力を借りっぱなしには決してしない。

私が女一代でこれだけのことが出来た、男に生まれておればもっと県民のお役にたてたであろう。

 

その言葉は今の高知の殿方には頭に痛みを感じる言葉。一代での成功者は余力を社会貢献へ、一言一言の言葉に重みと人格を感じた。

 

横山 玉恵

人望と真心の人

中国帰国者の為に、4億円の私財を、、

 

福留 福太郎  大正3年生まれ。

 

高知市街を一望の南の山上に、1987年、4億円の私財を投じて「中国帰国者の定着センター」を建設。民間では全国初。

 

昭和18年当時29歳の若さで60人を引率して開拓団長として中国へ、そして終戦を迎え日本人の悲惨な引き揚げ者の体験から、中国孤児達の帰国の都度、その当時を生々しく思い出して静観できなく「中国帰国者の定着センター」を建設。

 

特記:

終戦後、中国(旧満州奉天)潤陽から引き揚げ後、苦労を重ね、人生のどん底から一代で「福留開発株式会社」を築き上げた「人望と真心の人」何事も自分が起こす活動にはその全責任は我にある。その哲学の人。

 

福留 福太郎

畜産業界の発展に貢献

高知市比島の悪臭公害の解決に貢献

 

山本 丑三      大正生まれ。

 

高知市比島の養豚場周辺住民1万人を悪臭公害から救う。(昭和63-平成3年)

 

終戦後、長年に亘り選挙時期ともなれば市議たちが、私の公約として比島の養豚場の悪臭公害の解決を「私がやります」その演説合戦が長年続いていたが、その市議達はその時の集票が目的の演説で養豚場の悪臭公害の解決には、なんの役にも立たなかった。

 

まてど..悪臭公害の解決は出来ないことを見通した山本丑三氏は自費を投じて活動を開始、一人で養豚場周辺住民の署名を集めて、それを持参して強力な民間活動家の協力を得ることに成功、それによって高知市長(横山市長)と有能な市議(吉松のぼる)を動かして、ついに 養豚場を廃業させ比島の養豚場周辺住民1万人を悪臭公害から救った。

 

特記:

山本丑三氏は戦後苦労続きのどん底から一代で食肉事業を成功させた高知市北部、旧土佐山村菖蒲出身。どんな活動でも活動費とその全責任を引き受けた人。

 

山本 丑三

今回、掲載の5氏の共通面は、人生のどん底からの成功者で 、ゆとりは社会貢献へ、人々の模範になる人格者で明治末から大正うまれ。

この5氏のうち4氏は、我々が世のために補助事業でもやろうとすれば、いつも壁になるのは消極的な県の無能な担当課だったと語った。

 

※ 戦後の昭和生まれから平成にかけて高知県ではこの人達に継ぐ人物が見えない。

 

※ その理由は

 

有能な土佐人、次第に県外に流出が続く

 

有能な人材は、大都市へ流れる。

 

全国で最下位から2番目になった深刻な学力低下の問題は将来危機にある。

 

高知の今の政治、経済界には県民の模範になる人物が少なく感じる。

 

何よりも土佐の労働の質に問題を指摘されていることは今後の企業誘致に大きな課題となろう。

 

今の高知県人には足を引っ張る資質があり、なにお呼びかけてもあまり動かず成功しない、これらは本県の戦後教育にも問題を感じる。 

 

このようになった今の県民性の土佐では有能な人材は地元には定着できずに県外へ流出の一途にある。

 

高知県の展望は歴史上の人物を売り出すばかりに多くの税金を使うのではなく、県下全体の地場産業育成へもっと、もっと力を入れるべきである。

 

その知恵がなければ、日本の1自動車会社が外国人社長によって再建に成功した例がある。

 

現状の県政、高知市政の改革には、それも参考にすべきであろう。

 

資料調査

月刊誌=ジャセスNEWS(1986-1991)

2010年12月18日

JSN.COM通信

編集委員 杉本 武繁