特    集     
「巨額流用」事件の主役前収入役の素顔

第一部   ◆若い期                             
 高知市の北隣に位置する土佐山村は、豊かな清流に恵まれた静かな山村である。
 岩崎唯男(大正15年4月21日生)は、この村の東部山腹で300年余り続いている中級農家に三男一女の長男として生まれた。子供の頃から口数は少なく気性は勝ち気。土佐山村西川小学校卒業後、家業の農業を手伝い、冬期は炭焼。
 結婚後諸々の事情によって生家を次男に継がせ、長男でありながら唯男夫婦が分家。三男は村外の良家に、一女は同村内へそれぞれ良縁組で堅実な家庭を築いている。長男唯男夫婦の分家後は、本家身内のほとんどの者は勝ち気な気性の唯男夫婦とは折り合いが悪く、冠婚葬祭の義理務め以外は疎遠状態にあった。
 また唯男は労働の激しい農業、冬期の炭焼をきらって役場入りを志し、縁故採用がかなって昭和35年2月1日事務職員として土佐山村役場に入る。


  第二部  ◆忍耐の期 三役入りまでは遠かった
 昭和35年2月1日付けで役場に入り、当初は主に農地関係の補佐業務、その後一般書記、総務関係、昭和49年4月1日付けで行政課長となる。
 役場入りして14年間、真面目に補佐的業務に従事したことが認められ行政課長の肩書を得ることは出来たが、岩崎唯男の場合は他の職員とは少し違って窮屈な面があった。
 当時の村長は岩崎俊一氏、岩崎唯男とは従兄弟の間柄であった。 岩崎俊一元村長は(昭和38年5月~58年4月)農協組合長と村長を20年間も兼任、高知県の中部では「岩崎氏の右に出るものなし。」とも言われて、一時は土佐郡で県議会議員候補に推薦された程の人物(岩崎氏は辞退)。知性、能力、人望の三拍子揃った有能な村長が従兄弟では、他の職員よりある面では優位に、又逆に耐えねばならない面も多かったであろうが、昭和56年12月31日迄の7年9ヶ月、行政課長を務める間に職務上失敗もなく従兄弟の村長を支え続けた。
 昭和57年1月1日付けで収入役に就任。長年に渡り従兄弟の配下で黙々と働き続け、遠かった三役入りを果したのである。
 当時の助役は岩崎唯男について次のように語った。「仕事の上では腕達ちとは言えなかったが、女性への近づき方には目に余る事もあった。」
 次を目指すは助役であろう。当時はそのような見方をしていた村民が多かった。それには、これ以上従兄弟の村政が続けば岩崎唯男の助役への道は閉される。又「村長、助役」と身内同士の独占村政は村民が許さないだろう。そこに目をつけたのが、岩崎村政の中で長期間教育長(昭和29年~昭和57年)を務めた前村長の鎌倉利夫氏の頭の良さかも知れない。(当時の鎌倉支持者の話)
 鎌倉氏の思惑と岩崎唯男の次なる野望が都合良く重なり「従兄弟倒し」に走った。これが当時村民の大半の見方であった。その結果、20年間続いた岩崎俊一村政はついに倒れたのである。
 村内では「岩崎唯男の陰の力なくして鎌倉村長の誕生なし。」その話題が長く続き、「昭和の明智光秀だ。」と先々を心配する声も多かった。
 この頃(昭和58年5月)から真面目でこつこつと仕事に専念する一方で、もうひとつの側面の顔を村民は知る。
 堅い役場人間のイメージであまり目立たぬ存在が長く続いていた岩崎唯男は、脚光を浴び続けた従兄弟の長期村政の支配下からの脱却に成功したことと、鎌倉村政の裏方での権力を手にしたことによってその後の人生が大きく変わったのである。