特 集
(続)三部 岩崎唯男は平成の天野屋利兵衛か!!いまなら語れる!! 岩崎唯男の裏方権力 平成13年6月21日
岩崎唯男が鎌倉村政裏方の権力を手にするまでには、同村菖蒲出身の反岩崎派(二十年在任岩﨑俊一村長への反対派)の一事業家の強い働きかけと岩崎唯男の思惑の重なりがあった。
昭和57年夏、高知市立市民病院内で同村出身の一事業家から、「鎌倉利夫氏にワシの名に於いて是非伝えたいことがある。」との頼み事を受けた。
その内容は、「高知市内に悪口を書けるマスコミ(週刊・月刊)の会社がある。
ワシは困った事があれば、その会社へ頼んでは、これまでいくつも勝ってきた。
鎌倉利夫氏が次期村長選挙で岩崎俊一氏(現職)に勝つ為にはそれしか無いと思うのでその事を伝えてほしい。」との事だった。
早速その事を鎌倉利夫夫婦に伝えた。その時、夫婦は喜んだ。
後日高知市内の「はりまや町」の喫茶店の一階でK・J社とB・W社の記者と話し合いを行った。
その場で鎌倉氏は「今日の事はマスコミにお願いします」引き続き「内容についてもおねがいします」と言った。
更に後日鎌倉氏は、高知市内の三翠園ホテルのロビーでK社のY記者とも話し合いを行い、高知市内の三社の協力を取り付けたのであった。
またその時、引き続き鎌倉利夫氏を全面的に支えると申し出たのが収入役の岩崎唯男である(昭和57年1月1日収入役就任)。
「次期の村長選挙には、どんな事をしてでもワシが鎌倉を勝たせる。
マスコミ(週刊・月刊)にいくら金がいっても、ワシが全部引き受けるので心配はかけない、よろしく頼む」と岩崎唯男は大見栄を切った。
その後は土佐山村の新聞騒動となって村内は二分化。
ついに6期目を目指していた岩崎俊一氏(現職)は立候補を断念、急遽代替候補で戦ったものの鎌倉利夫氏に大差で敗れ、5期20年間続いた岩崎村政に幕。
村は鎌倉村長の誕生によって新しい流れに変わった。
戦いに敗れた岩崎俊一氏はこれまで兼任していた土佐山村農協の組合長を続けたが、その後も村内では二分化の状態が長く続き、村民間での鎌倉派と岩崎派の戦いの溝はなかなか消えなかった。
※その後、半年過ぎても鎌倉氏から、それ向きの挨拶がない。
鎌倉氏は我々をタダ使いをして逃げるつもりか?同村出身の一事業家とマスコミ(週刊・月刊)三社から不満の声が出た。
その話を大見栄を切った岩崎唯男に伝えたがなかなか返事が無く、ついにマスコミ(週刊・月刊)側は、鎌倉村長誕生の極秘の内面を岩崎派に売ると伝えた。
鎌倉村長と収入役の岩崎唯男の両氏は大あわて、村長個人は「今、銭が無い。
なんとか待ってもらえないのか?」
それに対してマスコミ側は、「まてない、今まで我々をタダ使いしておいて逃げていたではないのか」と抗議。
鎌倉村長も自らの電話で、なんとか少ないお金でと仲介願いの交渉。
それに対しては「自分で頼んだことは自分でやりなさい。」と仲介を断った。
引き続き収入役岩崎唯男が交渉役を続けたものの、その夜には「金がまとまらない。」とだけの伝言であった。
翌朝7時過ぎに収入役岩崎唯男から、「やっと銭が出来た、誰か高知へ届けに行ってくれないか?」との相談があり、「そんなもの請け合えない、自分で持っていけ」と断った。
その後の話で、金は収入役岩崎唯男が当時の村議会議長を呼んで頼んだことを知った。
後日その議長の話では「(元議員に)収入役さんから頼まれて高知のある場所で待ち合わせて社長に渡したが中味は知らない、僕は単に郵便屋をやっただけです」と話したと言う。
このようにして当時の鎌倉村長の内面の危機を収入役岩崎唯男の金銭工作によって救ったのであるが、その金策には疑問が続いた。
前夜遅く「金が無い」と言っていたのに早朝どこも金融機関が開かない時間に金が揃っているなどと不自然だ。
一方三社からは、「もう二度と鎌倉村長には取り合わない。当初思っていた五分の一にも足りないお礼しかなかった」との話を聞いたのでそのことを収入役の岩崎唯男に伝えたところ、「今後、銭のいるときはワシが全部出すのでいつでも困ったら言って来い」とそのように言う。
鎌倉村長関係の別口としてY記者に直接「ワシが払うと約束があって、その後払う払うと言いながらなかなか約束を守らない。
Y記者が岩崎派へネタを売ると言い出した為に又一騒動が起きた。
仮に鎌倉村長誕生に至る内面のネタが当時岩崎派に渡れば村中大変な騒ぎとなる。
大見栄を切りながら、実際は金がなくて困りきっている収入役岩崎唯男の様子を知った身内が、Y記者へ渡すお金を用意して岩崎唯男に持たせてY記者へ支払った」とのこと。
収入役岩崎唯男が自分個人としては金が無くて困っていながらY記者に金を渡して、別れ際に(市内堺町レストラン2F)「今後も鎌倉村長の関係で困った事があればいつでも言って来い。
銭はワシが用意する」と言い放ったのには驚いた。
しかしその言葉によって鎌倉利夫村長と収入役岩崎唯男との深い関係の一面を知ったのである。
とりあえずマスコミ(週刊・月刊)関係の処理は収入役岩崎唯男によって行われ、鎌倉利夫村長は当面の危機を救われたのであった。
また一方のマスコミ(週刊・月刊)関係側も鎌倉利夫と言う人物の人並み外れたずるさを知り「二度と相手にはしない」そう決め込んだのであった。
その話を聞いた同村出身の一事業家も「鎌倉がその様な男とは知らず皆んなに迷惑をかけた」と詫びた。
この様な経過によって(鎌倉利夫=岩崎唯男)二重権力構造の村政が強まり異変。それまで村民の信頼の厚かった当時の助役は任期を一年残して理由を明かさず辞任(平成元年)。
教育長上がりの素人村長の一期目はどたばた村政続きで「まるで村長の練習をさせているようなものだ。
この村長にこれ以上続けさせることは出来ない」ついに岩崎派が前助役を対立候補に立てたものの、陰でどんな秘策が使われたのか?鎌倉手腕でつぶされた。
それもどうやら己の立場と職に危機感を持った収入役岩崎唯男の例の秘策によって鎌倉村長が救われたのではなかろうか?その噂が続いた。
「村政=鎌倉時代」
収入役岩崎唯男によって再三の危機を救われた鎌倉村政は、二期目に向かい二重権力構造は次第に固まる。
その一方岩崎派は時の流れと共に衰退。
岩崎俊一組合長は農協統合によって平成元年4月高知市農協本所の専務に就任、土佐山村を出たため村内では鎌倉村政に敵無し。
土佐山村は正に鎌倉時代の全盛期に向かう。
鎌倉村長=収入役岩崎唯男の二者には共通の噂があった。
それは二人とも女性に手が早いと言う噂だ。
目立ち屋として知られた鎌倉村長の女性癖は評判が高い。
その一方、収入役岩崎唯男は鎌倉村長とは対照的で、こそこそ女性に近づくタイプだと聞いている。
派手に目立ち屋の村長とその金策係の収入役、そして役場内及び村の関連事業所の職員は鎌倉支持派一色の人材と言っても過言ではない。
村民20人に村の職員1人の割合の異常な村作りとなっている。
特に目立った村の巨額三大施設、『健康交流センターとさやま』『オーベルジュ土佐山』・『土佐山村保健福祉センター』等、巨額投資を続けた事によって村は財政危機に陥った。
筆者が市内の料亭で収入役岩崎唯男と二人で話し合いの機会に聞いた話しではオーベルジュ土佐山の総事業費は公には12億、実際は24億なので村はその金策に困っているので知恵をかしてくれんか?と言われた。
その内面には多くのドラマがあると思われるが、村の巨額事業を進める間の極秘情報はいまだに漏れてこない。
(注・巨額三大施設の建設にあたっての用地交渉は主に収入役岩崎唯男が担当したと聞いているが、いまだに村民が知らぬ極秘の進め方の中味については、現在の村の状況を考慮の上で今回は掲載しない。
「今なら語れる。元議員」
村の公共行事の一次会は、高知市内に土佐山村(村長・議員・役場職員・村の有志)行きつけの料亭があって一次会はその店で、その後の二次会三次会へと別れ、一晩に4店もハシゴをした事もあったという。
村の事業を進める途中で村長の首が飛ぶような難題が起きても、夜の街へ行ったと聞けば翌日には解決していた。そんな事が何度もあった。
村の巨額事業では、用地の買収交渉や相次ぐ難題の解決に当たっては収入役の活躍があったことは間違いないと思っているという。
元議員の話の裏付けとしては…収入役と夜の街へ入り浸る議員・役場職員・村の有志等の姿を村民が見ていた話はよく聞かれた。
「目立ち屋の村長を日の当たる道ばかり歩かせ続けた収入役岩崎唯男の金策は相当無理があったに違いない」と元議員は言った。
収入役岩崎唯男の暴走
土佐山村東部の県道脇に、飲食店に勤務していた村外の女性が家を建築した事が一時話題となった。
それは村長・村の幹部達が通い付けの店に勤めていた女性である事を村民が知っていたからである。
収入役岩崎唯男がその女性の家を新築する為の主な世話役をやったという。
その家の落成には村長と大勢の議員の顔が並んだ話は村中に広がった。
”土佐山村は恥も外聞もない。
女好き村政だ” 此処までも村民にはそう見えてはどうにもならん。その頃から収入役岩崎唯男の暴走が表面に…そして議員・村の有志・役場職員等が収入役と一緒に夜の街へ通う話が広がり続いていた。
高知市民の一人の話としてスナックで聞いた話だが、「収入役岩崎唯男について回る役場職員が一人いる。
私の店だけでもその職員を連れて30回は来ている」その話も前々から村内で噂として流れていた。
隣村の鏡村の村民からも夜の酒場で見かける土佐山村の議員・役場職員の話は多かった。
その一方、鎌倉村長は収入役の暴走などお構いなく「手の届く全ての名誉」を受け続けている。
しかしそのような鎌倉村政の外交費の面はどうだっただろうか?それには気になる言葉がある。
収入役の一言に「ワシが全部責任を負えばよかろう、そのつもりだ」・・・鎌倉時代を支えた者の一言に思える。それと共に多くの女性達の活躍によって華やかな鎌倉村政が続いた気がしてならない。
平成11年4月、鎌倉村政が終わる。
平成11年5月門田博文村政始まる。
平成11年6月3日、収入役岩崎唯男は役場の長椅子で筆者に、語気を強めて次のように言い放った。
「ワシは鎌倉に言ってやった。
『おまん(村長)は、村の財政をこんな状態にしておいて辞職するつもりか、後をどうするつもりだ』
鎌倉(前村長)がやりっぱなしにしておいて逃げた。
ワシは何とかして村の財政再建をしておいて辞職したい。その力を借りたい。
その話の続きとして平成11年10月10日午後6時ー10時まで高知市内の料亭で収入役岩﨑唯男と2人で飲食を共にした。
その時の話の中には、実はオーベルジュ土佐山は、公表は12億、実際は地域対策費など24億かかっているので、金のやりくりで困っておるので知恵を貸してくれ、と頼まれた。
その時は、筆者は鎌倉村政を遠くから見て来ただけにその言葉が理解出来たが、その裏面では大事件へ向けて暴走していようとはまったく知るよしもなかった。
不思議なことは、大事件発覚後も比較的村民が静かなこと、その原因がわからない。
平成13年6月21日
追記
岩崎唯男は鎌倉村政の公共事業の推進の裏工策と外交費の他、村政において難題が発生するたびに、きまえよく金で処理してきたようだ。
聞くところでは、公共事業を進める上で難題を持ち出されたそのたびに、その住民や議員等を夜の街に誘い裏金で解決して、鎌倉村政の公共事業での計画失敗はなかったと一建設業者は説明した。
村議会の開催中には、議員行きつけの街のお姉さんが夕方迎えにきて議会が終わるのを待ってお誘いが多かったと建設業者から聞いた。
その建設業者が夜の街での聞き込みでは、サービス店の女性達には多額なお金は渡していないという。
本当のことを明らかにすれば随分困る村民がいるから夜の街で使ったことにしているようだが、それにしてもサービス店の女性達は大変な迷惑。建設業者はそのように説明した。
また村民の中には金銭を内緒で世話になった者も少なくないと聞くが、公判中、岩崎唯男は全ての責任は私にある。それ以外は一切語らなかった。
(筆者は公判の取材を担当。)
収入役岩崎唯男はこの村の巨額使途不明の全責任を一人で背負って旅立った。
岩崎唯男は平成の天野屋利兵衛か!!
天野屋利兵衛
天野屋利兵衛とは大阪の商人で、大石内蔵助を初めとする赤穂浪士の討ち入りに協力した人。
利兵衛は蔵助の頼みで討ち入りに必要な槍二十本を秘かに江戸に運び、そのことが奉行に見つかり拷問を受ける。
赤穂浪士が仇討ちを遂げるまでは拷問に耐え、妻子を人質に取られても一切赤穂浪士のことは話さなかった。